日本漢文学の江戸後期
【序論より】(抜粋)
「日本漢文学」は、私達日本人が、どのように中国の文化を採り入れ、それをどのように独自の文
化に発展させてきたか、という命題を含んでいる。本研究は、そうした命題を念頭に置き、各時代の
中から江戸時代後期を取り上げ、日本人の手により、中国文学の形式を取って作られた日本漢詩文作
品の内容と、そこに込められた作者の意識とを検討し、その作品の意義を考察するものである。
本書で取り上げる四名は、活躍した時期も場所も立場も異なっている。齋藤拙堂は、地方藩の江戸
屋敷で、あまり地位の高くない武士の家に生まれ、努力して藩儒の地位を得た。?山陽は広島藩儒の
跡継ぎとして約束された身分を捨て、京という都会の市井で自由に後半生を生きることを選んだ。山
陽の父親である?春水は、竹原の紺屋兼医者の家に生まれたが、父の期待を背負って大坂へ遊学し、
広島藩儒となった。その末弟である?杏坪は、長兄春水に次いで広島藩儒となったが、学問所以上に
藩の実政に力を注ぎ、その働きが認められて、七十五歳で致仕を許されるまで藩の業務に尽くした。
彼らがその地位に就くまでの経緯や、漢詩文の創作に励む時期や姿勢は、各各異なっている。
四名は、文人趣味に生きたように見える部分がありながら、文人視されることを好まなかった点は
共通しているが、それぞれ文人趣味にいそしむ度合いが異なる、と私は考える。その彼らが、漢詩文
という手段を用いてどのように思索し、どのように自己を表現していたのか、各人について論を重ね、
更にその繫がりを考えてゆくこととする。
「日本漢文学」は、私達日本人が、どのように中国の文化を採り入れ、それをどのように独自の文
化に発展させてきたか、という命題を含んでいる。本研究は、そうした命題を念頭に置き、各時代の
中から江戸時代後期を取り上げ、日本人の手により、中国文学の形式を取って作られた日本漢詩文作
品の内容と、そこに込められた作者の意識とを検討し、その作品の意義を考察するものである。
本書で取り上げる四名は、活躍した時期も場所も立場も異なっている。齋藤拙堂は、地方藩の江戸
屋敷で、あまり地位の高くない武士の家に生まれ、努力して藩儒の地位を得た。?山陽は広島藩儒の
跡継ぎとして約束された身分を捨て、京という都会の市井で自由に後半生を生きることを選んだ。山
陽の父親である?春水は、竹原の紺屋兼医者の家に生まれたが、父の期待を背負って大坂へ遊学し、
広島藩儒となった。その末弟である?杏坪は、長兄春水に次いで広島藩儒となったが、学問所以上に
藩の実政に力を注ぎ、その働きが認められて、七十五歳で致仕を許されるまで藩の業務に尽くした。
彼らがその地位に就くまでの経緯や、漢詩文の創作に励む時期や姿勢は、各各異なっている。
四名は、文人趣味に生きたように見える部分がありながら、文人視されることを好まなかった点は
共通しているが、それぞれ文人趣味にいそしむ度合いが異なる、と私は考える。その彼らが、漢詩文
という手段を用いてどのように思索し、どのように自己を表現していたのか、各人について論を重ね、
更にその繫がりを考えてゆくこととする。